本が持つ役割や要素をアート作品として昇華させる太田泰友。本の新しい可能性を見せてくれるブックアートを、さらに深く追究するべく、ドイツを中心に欧米で活躍してきた新進気鋭のブックアーティストが、本に関わる素晴らしい技術や材料を求めて日本国内を温ねる旅をします。

第十二回 「印刷を温ねて(1)〜日本のシルクスクリーン黎明期編〜」

〈本〉というメディアが持つ特徴において、特に見逃せないものが〈印刷〉です。印刷は、情報を載せるために必要な技術であり、印刷術の発展によって本も多くの人々にとって身近なものとなり、日常から切り離せないものにまで進化を遂げました。そういう意味で、〈印刷〉というのは、〈本〉を考える上で必要不可欠な存在です。

〈印刷〉といっても、いろいろなものがあります。書物を急速に広めることになったグーテンベルクによる活版印刷術の発明は有名ですが、その他にも様々な版画の技術があったり、今日の身近なところではインクジェットプリンターで出力することも〈印刷〉と呼びます。

たくさんの〈印刷〉がある中で今回温ねることにしたのは、〈シルクスクリーン印刷〉です。シルクスクリーン印刷とは、穴の開いた版による孔版と呼ばれる版画の技法の一つで、アンディ・ウォーホルらが作品制作に用いたことでもよく知られています。

今回、シルクスクリーン印刷を温ねるための取材を、ある工房にお願いしたのですが、そのやり取りを通して意外なことに気づかされることとなります。

僕は、印刷を温ねるために、シルクスクリーン印刷を手がかりとすることについて、「シルクスクリーンが〈本〉と〈印刷〉の関係性の中で明らかな王道ではない」という認識を持っていました。わかりやすいところで考えるならば、活版印刷やオフセット印刷などが妥当なのではないかと思いながらも、どうしてもこのタイミングでシルクスクリーン印刷を訪れてみたい感覚だったのです。

取材のお願いをする際に、僕がブックアートの制作活動をしていることと、この連載の旅について説明したときに、担当してくださった工房の刷り師は「いったいシルクスクリーンと本にどのような関係が?」という反応をされました。僕にとっては意外だったこの反応で、「たしかにシルクスクリーン印刷と本の関係は、当たり前に密接なものではなかった」と改めて気づかされることとなったのです。

なぜこのようなことが起きたのかよくよく考えてみると、その要因は僕のドイツでの経験にありました。

著者がドイツで使用していたシルクスクリーン工房の様子。(2015年)

ドイツのブルグ・ギービヒェンシュタイン芸術大学には、シルクスクリーン工房があり、僕の在籍当時、シルクスクリーン工房のチューターはブックアート科の学生でした。講習を受ければ、設備の整った工房で自由に制作ができることと、ブックアート科では最初の数年で印刷技術の修得に努めるように指導されることもあって、ブックアート科の学生は大抵シルクスクリーンの技術を身に付けていて、ブックアート作品にもシルクスクリーンの技術がよく使われていました。僕はまずそこで、シルクスクリーン印刷と本が身近な存在であるような感覚を持ち、その後もドイツ国内でシルクスクリーン印刷を用いたブックアート作品を見かけていたので、それが当たり前だという認識になったのです。

しかし、それが日本でも同じだとは言えません。そもそもブックアートの文化が根付いていない状況ですが、少なくとも僕がこれまで見てきて、日本でシルクスクリーンを用いた本の数がとても少ない。このことに、今回の取材をお願いする中で気づかされました。

僕がシルクスクリーン印刷を温ねたいと思ったのも、改めて考えてみると、こういうことが根にあったのかもしれません。まだシルクスクリーンの魅力を、ブックアートと結び付けられていない。
新たな可能性を認識して、取材への気持ちが高まります。

日本のシルクスクリーンの草分け——岡部版画工房

今回、シルクスクリーン印刷を温ねるために訪れたのは神奈川県足柄上郡にある岡部版画工房。日本のシルクスクリーン印刷のパイオニアと呼ばれる岡部徳三(1932–2006)氏が1964年に同県秦野市に設立したシルクスクリーン版画の工房です。

岡部版画工房。

岡部版画工房の刷り師である牧嶋成仁さんによると、岡部さんは若い頃、米軍基地で仕事をしていた時期があり、その頃に米軍基地内で見かけたスクリーン印刷による印刷物に興味を持っていたとのこと。それから時が経って、創造美育協会やデモクラート美術家協会と関係があった岡部さんは、そのメンバーからシルクスクリーンの道具一式を譲り受け、美術評論家の久保貞次郎氏からの助言もあって、工房を設立しました。当時のアメリカでは、版画の工房が版元となり、版画作品を売るというシステムができ始めていて、日本でも完成した版画作品をパトロン的な存在が買い上げ、その資金が作家と工房に還元されるようなシステムで版画工房ができないだろうかというところが出発点だったそうです。

岡部徳三氏(2002年)。 ※岡部版画工房 提供

道具をどのように使うのかというところから始まり、工業印刷としての技術を美術作品の制作のレベルに引き上げるために、スクリーンの膜厚を薄くしたりテンションを高くしたりといった微妙な差の調整をしたり、シルクスクリーン印刷に適した紙の開発をしたりと、技術のクオリティーをあらゆる角度から追求し、また版元としての立場も取りながらの挑戦が続きました。

岡部徳三氏による「カッティング」。 ※岡部版画工房 提供

1960年代の後半になると、現代美術の作家を中心に、シルクスクリーンの作品を作りたいという注文が増え始めましたが、それらは常に実験的で、版元としても、作家と協働作業で作品を生み出す刷り師としても、決して平坦ではない道のりの岡部さんの挑戦は続きます。

技術的な問題以上に大変だったのは作品のコレクターを探し出すことで、1970年頃には資金繰りの厳しさから工房を畳む覚悟でニューヨークへ行きました。現地で活躍するパワー溢れるアーティストとの交流や、版画工房、印刷工場を見学しているうちに、帰国する機内では美術家の靉嘔あいおう氏から紹介されたナム・ジュン・パイク氏の次の版画制作を考えていたそうです。
その後、いろいろな作家との関わりや作品制作を通して、工房は実験的な活動を続けていくこととなりました。


今回の温ね先

岡部版画工房

岡部徳三(1932–2006)が、自刷りの版画家ではないアーティストの自由な発想をシルクスクリーン版画にし、販売するというシステムによる版画工房を日本の草分けとして1964年に設立した工房。岡部の逝去後も、「職人になれ、職人としての自覚を持つように」という精神は受け継がれ、工房での版画制作は続いている。工房に集う作家は、美術家、映像作家、音楽家、写真家、人形作家、デザイナーと様々な分野に渡り、作家と刷り師のコラボレーションのもと、日々研究と試行錯誤を重ねながら、新しい版画表現とオリジナルな技術が生み出されている。


第十三回 「印刷を温ねて(2)〜デジタルとアナログ編〜」に続く
この記事を書いた人

太田 泰友(おおた・やすとも)
1988年生まれ、山梨県育ち。ブック・アーティスト。OTAブックアート代表。
2017年、ブルグ・ギービヒェンシュタイン芸術大学(ドイツ、ハレ)ザビーネ・ゴルデ教授のもと、日本人初のブックアートにおけるドイツの最高学位マイスターシューラー号を取得。
これまでに、ドイツをはじめとしたヨーロッパで作品の制作・発表を行い、ドイツ国立図書館などヨーロッパやアメリカを中心に多くの作品をパブリック・コレクションとして収蔵している。
2016年度、ポーラ美術振興財団在外研修員(ドイツ)。
Photo: Fumiaki Omori (f-me)